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油 庫 4 今年の元旦も昨年同様、JR東海の「新春こだま&ワイドビューフリーきっぷ」で・・・
tgv844さんのお奨めもあり、武豊線と美濃赤坂線へ・・・美濃赤坂では思わぬ発見もあり・・・

2013/01/01
北柏 5:15 発の電車に乗って・・・今回のきっぷはこれ・・・

2013/01/01
昨年・今年と、このところ初日の出はこだま号から拝むパターン・・・

2013/01/01
現役最古の駅とも伝えられる亀崎へ・・・建物資産標によると明治19年1月とありました・・・

2013/01/01
梁の構造・・・後世のものに比べて未だ若干簡素な気がします・・・

2013/01/01
跨線橋は駅本屋に比べて大分新しそうですが、面白い構造をしています・・・

2013/01/01
次いで半田駅へ・・・油庫が目当てでしたが跨線橋もなかなか・・・

2013/01/01
油庫で寄棟の屋根は珍しいです・・・

2013/01/01
油庫の近くには立ち入れないので、対向ホーム側から建物資産標を慎重に狙います・・・

2013/01/01
上記中央部・建物資産標の等倍拡大・・・M44年12月と読み取れました・・・
このようなことが出来るのもローパスフィルターレスの K5ⅡS ならでは?・・・

2013/01/01
駅の柱の一部・・・トラス構造などの機能一点張りではなく、装飾も付け加わっています・・・

2013/01/01
駅の北側の駐車場には C11 265 号機が旗を掲げて・・・
他に半田市鉄道資料館が在りましたが当然お休み・・・

2013/01/01
蒸気ドームが丸型で、一方の砂箱が角型なのは珍しいように思います・・・

2013/01/01
その横を普通列車が通り過ぎました・・・豪農なのでしょうか?・・・長い長い黒板塀が見事・・・

2013/01/01
駅名標の下にはRCA半田鉄道少年団とあります・・・見事な花キャベツ。
幼少時、地元にこのような組織が在れば、迷わず入会していたことでしょうな。
このような会も無かったお陰で、全く団体行動の苦手な大人になってしまいましたとさ・・・

2013/01/01
次は武豊線終点の武豊駅・・・

2013/01/01
台座裏面の顕彰記から

 高橋熙君顕彰記
昭和二十八年九月二十五日襲来した十三号台風により武豊町塩田地区の護岸堤防が決潰し高潮の浸水によって鉄道線路が洗われたので列車の運行が危険な状態となった この時旅客列車が東成岩駅を発車したことを知った武豊駅駅手高橋君は荒れ狂う濁流と暴風雨とをおかして発煙筒を打ち振って危険信号を送った このため列車は危機寸前に停車して多くの生命は救われたのである然し高橋君は哀れにも怒涛にのまれ、悲壮な殉職をとげてしまった
その尊い犠牲的行為に感激し有志が相談して君の胸像を建てその功績を永遠に伝える
昭和二十九年九月 愛知県知事 桑原幹根撰 志芳書
駅前には、旅客列車防護のため殉職した高橋煕(さとし)氏の像・・・今も鏡餅などが供えられています・・・
像は常滑焼の陶製だそうです・・・
 

2013/01/01
武豊駅からさらに南へ約1.1km歩きます・・・里中交差点近く転車台ポケットパークというところに
大変珍しい「円形板張り井桁状転車台」の遺構が在ります。

2013/01/01
鎖錠機構・・・円周上に1つだけ在ります・・・

2013/01/01
偏荷重を受ける為の車輪・・・車輪下にはくさびが打たれています・・・

2013/01/01
周辺にある醸造所?倉庫?・・・

2013/01/01
先の写真の建物群の一角・・・紅葉したツタが絡まっています・・・

2013/01/01
屋根瓦などにもかつての栄華がしのばれます・・・

2013/01/01
武豊線の次は東海道線の木曽川駅へ・・・ここにも油庫が移設・保存されています。
元は扉が東向きで、現在は西向き180°変更されています。
ホームの柱(付卸旅客通路上屋・柱方杖の一部と記されている)も保存されています。
以下案内板から・・・


JR東海道本線木曽川駅 駅倉庫
煉瓦造、平屋建、13.264m2、大正元年(1912)竣工

棟札は発見されておらず、出入口の北側の上に付けられていた「建物資産標」には「大正1年11月」と記載されて
いるが、登記上の記録では「大正元年12月」とある。この駅倉庫は、線路のポイント切替部分などに使われる潤滑
油の倉庫(油庫)と伝わっている。

構造体は基礎から壁面にかけて煉瓦を積み、その積み方はオランダ積みを採用しており、壁の厚みは1枚で、腰
部分は1枚半である。小屋組を木材で和風小屋組とした平屋建てである。煉瓦には刻印は無く製造所は特定できて
いない。1個の平均値は、長さ225.0mm ×小口幅108.3mm ×厚み56.0mm、機械成型でワイヤにより切断している。
目地の幅の平均値は、水平(横)が9.4mm 垂直(縦)が9.7mmで、材料はセメントモルタルである。
外部は赤煉瓦を見せる仕上げの外壁で、開口部を3箇所設け、東面が出入口で、南面及び北面が窓となっていた。
出入口や窓の上部は陸迫り(ろくぜり=水平アーチ)とし、出入口下部と窓台を御影石とする。窓そのものはアル
ミサッシに変更されている。屋根形状は切妻、桟瓦葺きで、出入口の上部だけに波型のスレートの庇が取り付けられ
ている。
内側の壁は腰の位置まで煉瓦が見えるが、それより上は垂木まで白漆喰が塗られている。天井は無く、小屋組
が現れている。内部の床はセメントモルタルと思われる土間となっている。
全体の姿は、洋風というより、伝統的な土蔵の形式に近い。施工精度や煉瓦の品質に優れた建築物である。

なお、従来は入り口を東側に向けて数m南西に建っていたが、保存のため平成20年(2008)9月に現在地へ移設された。

平面図 縦断面図 横断面図 
北立面図 西立面図 南立面図 東立面図
駅倉庫現状図

【参考文献】『東海道本線木曽川駅 駅本屋及び附属建物等 調査報告書』
(東海道本線 木曽川駅 駅本屋及び附属建物等 調査委員会 2006年3月)
一宮市教育委員会

JR東海道本線木曽川駅 付卸旅客通路上屋(つけおろしつうろうわや)
~柱・方杖(ほうづえ)の一部~

木曽川駅(当初は木曽川停車場)は、地元の強い誘致により、明治19(1886)6月1日、一ノ宮停車場・木曽川停車
場開通にあわせ、城下町・宿場町として発展した黒田の町の中心に開業した。初代駅舎は21年6月に竣工したが
24年の濃尾地震で全壊し、翌25年に二代目の駅舎が建てられた。

二代目駅舎は、現役で使用されているものとしては日本最古級であり、明治の標準的な駅舎のスタイルを遺した
当地の近代化の象徴ともいえる建造物であったが、平成20年5月に惜しくも取り壊された。
木造平屋建・瓦葺で、せいは高く、当初の屋内は、二室に分けられ暖炉も備えられていたと思われる。

ここに保存展示されているのは、木曽川駅の駅舎に付属する付卸旅客通路上屋の部材(柱・方杖)の一部である。
付卸旅客通路上屋の竣工年は、「建築資産標」には「明治19年12月」と記載されているが、二代目駅舎より後に建
てられた可能性が高く、大正元年(1912)に完成した跨線橋(部材の一部が現駅舎の改札内に保存されている)と同
時期とも考えられる。

『日本国有鉄道百年史』によると、濃尾地震後、「各停車場の家屋を改築するに当たり、すべて木造とし、基礎は煉
瓦で築き、土台木はボルトで基礎を定着させ、柱・桁・梁などの各つなぎぎわには隅金具を使用しボルトで締めた。
また、柱の中間には筋違木を入れ、小屋組は全て洋風のトラスを用いて、震害の予防に意を払った。」とあるが、
展示資料はそれを彷彿とさせ、近代建築における地震対策を物語る貴重な資料といえよう。
(写真:付卸旅客通路上屋の内部 北面)(図面:付卸旅客通路上屋 横断面詳細図)
【参考文献】『東海道本線木曽川駅 駅本屋及び附属建物等 調査報告書』
(東海道本線 木曽川駅 駅本屋及び附属建物等 調査委員会 2006年3月)
一宮市教育委員会


2013/01/01
雨どいの構造詳細・・・

2013/01/01
橋上駅舎内に保存展示してある、手摺り下に動輪マークの入ったベンチと鋳鉄製柱・・・

2013/01/01
次は乗りつぶしのために東海道線の支線、通称美濃赤坂線の終点・美濃赤坂駅へ・・・

2013/01/01
辺りを見回すと大きめの花壇がいくつも在って、意外にもその奥にはレンガ製の油庫が・・・

2013/01/01
基本は片流れ屋根ですが、手前にも短い傾斜があります・・・この形も初めて見ました・・・

2013/01/01
背面の様子・・・窓はガラスではなくルーバーとなっています・・・

2013/01/01
待合室から・・・すっかり日も落ちて・・・

2013/01/01
待合室入り口・・・

2013/01/01
待合室入り口の柱の基部・・・

2013/01/01
大垣駅へ戻って・・・跨線橋・・・
PENTAX の新型機 K5ⅡS はこのような描写が優れている気がします・・・

2013/01/01
大垣駅・・・少々珍しい柱の装飾的構造と、奥には樽見鉄道の車両・・・
この後、米原から新幹線「こだま号」で帰京・・・北柏に着いたのは23:56でした・・・


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