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梶原・丸またのねじりまんぽ 2日目は、ヒガミちゃんが当方を旅行に誘い出すために、わざわざ探し出してきた、
水路閣、梶原と丸またのねじりまんぽ・・・それからご先祖様の墓参りへ・・・

2020/11/15
夜明け前の堺東駅

堺東 505

天下茶屋 517 528
レ大阪メトロ堺筋線
北浜 539 549
レ京阪電車
三条 647
三条京阪 658
レ京都市営地下鉄東西線
蹴上 702 940

2020/11/15
地下鉄などを乗り継いで・・・南禅寺近くのねじりまんぽへ・・・

2020/11/15
蹴上駅の地下鉄出口すぐにありました・・・

ねじりまんぽ
「ねじりまんぽ」は三条通から南禅寺へ向かう道
路の造成に伴って建設され、明治二十一(1888)
年6月に完成しました。高さ約3m、幅約2.6m、
長さ約18m。「まんぽ」とはトンネルを意味する
古い言葉です。トンネルの上部に敷設された、台車
に載った船が行き交うインクラインの重さに耐えら
れるように、内壁のレンガは斜めに巻かれ、トンネル
はインクラインと直角ではなく斜めに掘られて
います。
トンネルの東西には、トンネルの完成を祝い第3
代京都府知事の北垣国道が揮毫した扁額があり
ます。西口の「雄観奇想(ゆうかんきそう)」は「見事なながめとすぐれ
た考えである」、東口の「陽気発処(ようきはっするところ)」は「精神を集中
して物事を行えば、どんな困難にも打ち勝つこと
ができる」という意味です。
このような形状のトンネルは全国的に施工例が
少なく、また多くが老朽化や廃線等で撤去され
ました。「ねじりまんぽ」は、明治時代の土木技術
を物語る貴重な遺産といえます。
京都市


2020/11/15
雄観奇想の扁額・・・
雁木と呼ばれるレンガを斜めに積んだ段もあります・・・

2020/11/15
スプリングライン下には小アーチが並んでいます・・・
これは非常に珍しい・・・

2020/11/15
ねじりまんぽはインクラインの下を通っています・・・
なので一応、鉄道関連施設ということで訪問対象となった訳で・・・

2020/11/15
昨日に続いて縁起が良い鳥、アオサギが迎えてくれました・・・
奥はインクライン・・・

2020/11/15
インクラインの台車・・・

2020/11/15
そして、超広軌のインクライン・・・
ゲージは如何ほど?

インクライン(傾斜鉄道)
大津から京都を結ぶ東海道の難所であった逢坂山や日ノ岡の峠道は、旅人
や貨物運搬にとって悩みの種で琵琶湖から水を引き、その水路を利用して
舟運を興すとともに、田畑を潤すことが古くは平清盛、豊臣秀吉の時代
からの願望として伝承されてきました。明治2年(1869)の東京遷都以降、
衰退する京都経済の復興策として京都三代目知事北垣国道、青年技師田邊
朔朗、測量師嶋田道生ら技術陣・行政関係者、上・下京連合会、市民の力で
明治18年(1885)8月、水車動力、舟運、かんがい、精米水車などの
多目的な効用をはかるため、疏水開削工事に着工しました。
インクラインは蹴上船溜(ダム)や南禅寺船溜に到着した船から乗り降り
することなく、この坂を船ごと台車に載せて昇降させる目的で建設されました。
当初、蹴上から分水した水車動力(20馬力、15kW)によって水車場内の
ウインチ(巻上機)と水中の滑車を回転、ワイヤロープでつないだ軌道上の
台車を上下する構造を考えていました。その後、明治21年(1888)、田邊
技師、高木文平調査委員が訪米し、アスペン鉱山の水力発電を視察した
結果、インクライン動力源を水車動力から電力使用に設計変更され、事業用と
してはわが国初の蹴上発電所を建設することになりました。この電力が
世界最長のインクラインに35馬力(25kW)、時計会社に1馬力
(0.75kW)など産業用、電灯用として活用されました。
明治27年(1894)には伏見区堀詰町までの延長約20kmの運河が完成し、この
舟運により琵琶湖と淀川が疏水を通じて結ばれ、北陸や近江、
あるいは大阪からの人々や物資往来で大層にぎわい、明治44年(1911)には
渡航客約13万人を記録しました。しかしながら、時代の流れで大正
4年(1915)には、京津電車、京阪電車が開通旅客数が3万人台に激減したのに
加え、国鉄(JR)の方でも東山トンネルが開通して大正10年に現在の
山科駅が開設されたため、京津間の足としての疏水の機能は実質的に失われ
ることとなりました。一方、貨物の輸送量は、大正14年(1925)には
史上最高の22万3千トン、一日約150隻を記録しました。やがて、陸送化が
どんどん進み昭和26年(1951)9月、砂を積んだ30石船が最後に
下り、疏水舟運60年の任務を終えました。
こうして、琵琶湖疏水・インクラインは文明開化以降における
画期的な京都再生の役割を果たしました。
平成8年(1996)6月には、国の史跡指定を受け、今日の京都を築いた
遺産として後世に永く伝えるため形態保存しています。
概要
着工 明治20年(1887)5月
竣工 明治23年(1890)1月
運転開始 明治24年(1891)11月(蹴上発電所営業運転開始)
幅 約22m
勾配 15分ノ1
所要時間 10~15分
電動機 直流440V、70A
ドラム工場 南禅寺船溜北側(白い建物) 
平成15年3月1日 京都市水道局

2020/11/15
一旦、ねじりまんぽの外へ出て、蹴上発電所の建物・・・

2020/11/15
再びねじりまんぽをくぐって南禅寺方面へ・・・
早朝なので、未だ人影がありません・・・

2020/11/15
南禅寺境内・・・見事な紅葉です・・・

2020/11/15
絞りや露出、現像処理を少しずつ変えながら・・・
納得のいく表現を模索・・・

2020/11/15
三門と・・・

2020/11/15
水路閣へ・・・
人出がぼちぼち・・・

2020/11/15
琵琶湖疎水の支線で、南禅寺境内を通る水道橋が、水路閣です・・・

2020/11/15
ところで疎水の行き先には、だれも注視しませんが・・・
当方はしっかり確認・・・

2020/11/15
私的には少し過剰装飾ですな・・・

2020/11/15
こういう写真も・・・自転車の車輪がチョット・・・

次は、亡き母が「京都大丸の裏にある、森蘭丸の墓の斜め向かいに、佐藤家という先祖の墓が在る」と、
ばあちゃんが言っていたとかで、確かめに行きます・・・


蹴上 702 940

烏丸御池 947 949

今出川 952

2020/11/15
森蘭丸の墓が京都大丸の裏に在るといっても、大丸から4km近く北方でした。
このあたり、「先の戦争」が、「太平洋戦争」ではなく「応仁の乱」を指したりする、京都人らしい表現?
ショートカットのため相国寺(しょうこくじ)を抜けさせてもらいます・・・

伊藤若冲(じゃくちゅう)が動植綵絵(どうしょくさいえ)を寄進した先が、
相国寺だったという事は後で知りました・・・

2020/11/15
相国寺を抜けると甲子の役(禁門の変・蛤御門の変)戦死者の墓が・・・
歴史上の大事件の史跡がそこここに在るのは京都ならでは・・・
ちなみに、この辺りの寺は甲子の役で、
長州兵に焼き払われた恨みを未だに忘れていないそうです・・・
ああ恐ろし・・・

2020/11/15
阿弥陀寺に着きました・・・左手、木板に墨で書かれた案内板には次のように・・・
何と織田信長公の本廟だそう・・・
何で、ばあちゃんは信長の廟に、先祖の墓が在ると言わなかったのか?
この辺りも京都人独特の表現???

阿弥陀寺
蓮台山(れんだいさん)と号する浄土宗の寺院で、本尊は
丈六の阿弥陀如来である。当寺は天文年間
(一五三二~一五五四)清玉上人の開創になり
当初は西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出
川大宮東)に八町四方の境内と塔頭十一ヶ寺を
構えていた。また当時正親町天皇は清玉上人
に深く帰依し、東大寺大仏殿の勧進職を
命じるとともに、当寺を勅願所とされた。
清玉上人は織田家と深い親交があり天正十年
(一五八二)六月二日の本能寺の変の折、本能寺
等にかけつけ織田信長、信忠父子及び家臣百
有余名の遺骸を当寺に埋葬したといわれる。
本堂には織田信長 信忠父子の木像等が
安置され墓地には信長 信忠や本能寺の変
討死衆の墓 儒者皆川淇園 俳人蝶夢の墓等
がある。京都四十八願寺巡礼の十六番札所
でもある当寺は、天正十五年(一五八七)蓮台
野からこの地に移され、現在に至っている。
京都市

2020/11/15
正面に並んで信忠と信長の墓・・・
もっともここが信長の本廟と確定したのは、大正6年のことだそう・・・
ばあちゃんが信長の本廟に・・・と言わなかったのはその為?
左手に森蘭丸らの墓が並んでいます・・・

2020/11/15
左から、森力丸、森坊丸、一つ置いて、森蘭丸の墓です・・・

2020/11/15
森蘭丸の墓から斜め向かいの辺りを探すと・・・
2,30m離れた辺りに、周りよりやや小さく佐藤家の墓が・・・
これがご先祖様のお墓なのでしょうか?
一応、お参りして、阿弥陀寺を後にします。
何かお供えでも持ってくればよかった。
それにしても、ご先祖様の墓が、歴史上の人物の近くに在って良かった?

2020/11/15
阿弥陀寺を後にして、地下鉄の鞍馬口へ向かいます・・・
道端の花が、行き交う人の目を楽しませてくれます・・・

鞍馬口 1108

四条 1115
烏丸 1126

阪急上牧 1155 1435

2020/11/15
阪急上牧駅着・・・
東海道線にはレンガの架道橋はたくさんあります。
全部を見ることはできないので
ねじりまんぽを集中的に・・・
先ず、梶原のねじりまんぽを目指します・・・

2020/11/15
①阪急上牧駅からJRの東海道線に近づくと最初の架道橋・・・
この後の架道橋がレンガ主体で構成されているのに対し、
レンガは巻きの上半分だけで、他は石材です。
レンガの使用量を節約したような造り・・・
場所はEXIFにGPSデータを残してありますので、参照してください。

追記:明治7年に廃城となった高槻城の石垣を流用しているそうです。
高槻城の石垣の大半は現在のJR京都線建設のため、橋梁の橋台やアーチに転用されたそうです。
出典はここ

2020/11/15
①反対側(北西側)は無粋なコンクリート・・・
他の架道橋も同様です・・・
複線化の際、北西方向に線増したためと思われます。

2020/11/15
①この写真は帰りに撮ったもの・・・少し陰ってきたので観察し易く・・・
お城の石垣を使っているだけあって、小さくとも風格が感じられるのは気のせい??・・・

2020/11/15
②次の架道橋へ・・・下が石積・・・山端橋梁・・・

2020/11/15
②翼壁には山端と記されています・・・

2020/11/15
③番目は、出会い注意の甚兵衛川

2020/11/15
③翼壁には甚兵衛川・とうかい136とあります・・・

2020/11/15
④番目・・・内田辻・・・とうかい137

2020/11/15
④翼壁には内田辻と・・・

2020/11/15
⑤番目・・・とうかい138・・・
翼壁に表示は見当たらず・・・

2020/11/15
⑥番目・・・とうかい139・・・
他のまんぽは幅(径間)が2450mm前後ですが、
なぜかここだけ2475mmで他と比べて25mmほど広い・・・

2020/11/15
⑦番目にしてようやく梶原のねじりまんぽ(奥田畑橋梁)に着きました・・・
とうかい140・・・
明治9年(1876年)頃の建造と推定されています。

2020/11/15
⑦スプリングラインに掛かるレンガは、斜めに加工されています・・・
阪急上牧駅へ戻ります・・・

2020/11/15
帰りは、風情の感じられる旧道を通ってみます・・・

2020/11/15
お堂のようなものが在って・・・右手の案内板には・・・

梶原一里塚跡
この地は、旧梶原村の東端に位置し、
かつて、榎を植えた一里塚が設けられ
ていた。一里塚とは、一里塚とは、一里(約四km)ご
とに街道の路程の目印としたもので、
市域では、旧芥川宿との二箇所にあり、
今も芥川一里塚は現存する。
文化元年(一八〇四)発行の『浪華講
定宿帳』には、「一里塚前、茶屋平七」
の名がみえ、当地周辺に旅籠(旅宿)
があったものとみられる。

なお、堂内の地蔵尊は、かつて淀川沿
いの中村にあり、度重なる水害から守
り継がれたもので、「水あがりの
地蔵さん」とも呼ばれ親しまれている。
平成元年八月
高槻市教育委員会

2020/11/15
電車が来ました・・・

2020/11/15
駅への途中、カレー店を見つけ・・・

2020/11/15
昼食を頂きます・・・歩き疲れたこともあるのか非常に美味でした・・・
客層は地元民が中心のようです・・・

上牧 1155 1435

高槻市 1439 1443

総社寺 1447

2020/11/15
総社寺で降ります・・・

2020/11/15
丸またのねじりまんぽに向かう途中・・・
またもや・・・
レーザー測距儀で計測した径間は、少し大きく 3,033mm 程
なぜかパラペット(胸壁)の上部・下部でレンガの色調が異なる・・・

2020/11/15
あと一息で、丸またのねじりまんぽ(門ノ前橋梁)です・・・

2020/11/15
北側から到着・・・
径間は、レンガ積の最下部で測って 2,971mm 程・・・
馬蹄形のトンネル断面のように、少し下すぼまりになっているようです。

2020/11/15
南側から望遠レンズで・・・
太巻き、とうふの幟がよいアクセントに・・・

2020/11/15
巻きの部分・・・

2020/11/15
スプリングラインには迫石(せりいし)を設けています。
その迫石は鋸型に加工されていて、凝った構造となっています・・・

2020/11/15
袂にある鉄道の境界標・・・
阪急の茨木市駅へ向かいます・・・

2020/11/15
駅へ向かう途中、町屋があって・・・

川本家住宅 国登録有形文化財(建造物)
川本家住宅のある上泉町(かみいずみ)は、茨木城廃城後の江戸時代に
は北市場町と呼ばれ、丹波口へと続く街道が南北に通って
いました。『摂津名所図会』(寛政十年)には「嶋下群都
会の地也、交易の商人多し」とあり、近世茨木村は、この
地方の商工業中心地の町場として発展し、酒・醤油などの
醸造業、絞油(こうゆ)業・日用品細工などを主要産業とし、近隣諸
村の農産物や加工品の集荷地でもありました。
川本家住宅は、江戸時代に米問屋を営み、明治時代以降
は日用品の卸問屋として栄えました。通りに面した「店舗
兼主屋」は間口6間(約十一米)で、二階正面が黒漆塗りで、
店舗兼主屋の通り土間から、トロッコレールを引き込んで
敷地奥の「倉庫」へ続いています。また渡り廊下を介
して、銘木を多用した「離れ」があります。
現在も、川本本店として商いを行っており、時代が移ろ
いゆくなかで、往時の面影を残す数少ない町家です。この
ことから、国の登録有形文化財となりました。
茨木市教育委員会

土間から倉庫までレールがあったそうで、
是非見てみたいと思うところ・・・
線路なら何でも見たいと思うのは鉄チャンの業ですな。

2020/11/15
茨木市駅に到着・・・

茨木市 1627

烏丸 1651 1701

京都 1704 1816
レのぞみ430
品川 2020 2032

柏 2116 2120

北柏 2123

2020/11/15
京都駅、GOTO割引券でお弁当を購入。
帰途につきます・・・
のぞみ430号にて。

ヒガミちゃんは、もう一日ほっつき歩いて帰りは飛行機とのこと・・・


最近、お局さん登場しないねー・・・どうしたの? 残念だねー・・・という言葉を頂いています。
当HPに核爆級の笑いを提供して頂いていましたが・・・
当方が、お局さんが居た事業部から、
ブラック企業さながらの部署へ配転となってしまったので、
残念ながら今後、お局さんが登場することは無くなってしまいました。

会社は、コロナ禍とは無関係に経営の失敗で、400億もの巨額赤字を出し、
今では、正社員の希望退職を百人単位で募っているような惨状です。
派遣社員は既にほとんど首を切られました。
当方も派遣社員なので残された雇用期間も、あとわずかと思いますが、
幸い、既に年金で暮らせる歳なので、当HPも細々と続けていけると思います。
お局さんとは縁が切れてしまいますが、相変わらずヒガミちゃんが笑いを提供してくれるので、
今後とも当HPをよろしくお願いいたします。

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